みなさんの声 エネルギーワーク科-7

ケガによる右腕麻痺からの回復、女性、40代(初回来院時)、主婦、農業研修生

治療内容: カイロプラクティック、エネルギーワーク

初回来院: 2001年12月 (女性、40代、主婦、農業研修生)

受信: 2006年3月

「きっかけ」

5年前の冬、私は、事故による上腕部骨折で、神経が圧迫されて動かなくなった右腕を抱えてストウヒーリングセンターをたずねました。

30半ばにして「農業」を志し、夫婦で北の大地をめざして移住、研修1年目の畑での事故でした。

事故から3ヶ月がたち、医者から「右腕が動く可能性は低い」といわれ、利き腕を左側に替えるリハビリを行っていました。

「もし、右腕が動くようになったとしても、そうなるにはとても長い時間がかかると思うし、以前のようには動かないから、農業はあきらめたほうがいい」といった整形外科のお医者さんからは、それ以上の治療を望むことはできませんでした。

肉体面で、就寝時以外はずさない三角巾でつった右腕の重さによる肩こり・腰痛と、体の左右のバランスがくずれていくような不安をかかえていました。

にもかかわらず、精神面では将来への絶望感にひたることもなく、なぜか、“もうずっと右腕が動かない”と思うこともなかったのが不思議でした。あまりにも突然ふりかかった出来事で、心が現実を受けとめきれなかったのかもしれません。

入院中、以前読んだ、ハンズオンヒーリングのことが書かれた「光の手」を読み直しました。前に読んだときはそのあまりにも現在の医療とはかけ離れた治療技術の印象だけが残っていましたが、このときは、手術後の激痛が少しでもやわらぐ術はないものかと、熱心にページをめくったことを覚えています。

あらためて読み進むうちに、人間の体が目に見える肉体だけで構成されているのでないなら、この事故のダメージを癒すには、見えない部分にも働きかける必要があるのではないかと感じはじめました。

この治療をうけてみよう。自分で自分の治療計画をたててみよう。

早速、インターネットでBBSHハンズオンヒーリングがうけられるところを探したところ、いくつかでてきました。その中に、カイロプラクティック治療も併設されている「ストウヒーリングセンター」がありました。カイロについては、そのときはどんな治療かはっきりとはわかりませんでしたが、右腕麻痺が原因で肉体にあらわれている諸症状に有効かもしれないと思い、いっしょに治療を受けられるならと、連絡をとりました。

同時に家族の大いなる協力をえて、専門の作業療法士による右腕のリハビリ、鍼灸マッサージ、ホメオパシー療法家によるレメディの処方をうける準備が整いました。

事故後止まっていた時間が、いっきに流れはじめたようでした。

 

「治療をうけて/生体エネルギー治療」

はじめてのエネルギーワークの時間は、事故の詳細を話すことからはじまりました。

久枝先生の穏やかな雰囲気に何から話せばいいんだろうというあせりは少しずつ消えてゆき、バリヤがはずれ、やや興奮気味に話し続けたような記憶があります。久枝先生からの、事故を起こす前までの生活や心理状態についての質問に答えるうちに、この出来事をどこかで他人事のように受け止めていた自分自身にハッとしました。

肉体面の障害や痛みにばかり気をとられ、同じように傷ついて声をあげて泣きつづけていた私の“心”に、そのとき、はじめて気がついたのです。

「~しなければならない、~でなければならない」という自分自身でつくりだした思い込みにおさえこまれ、発言権を奪われた私の“心”は、おしつぶされてしまう直前に、事故というカタチで、忘れ去られた存在を主張したのでした。

「そのとき、あなたはどう感じたの?」と、ひとつひとつの行動の裏側に身を潜めていた私の“心”に、穏やかに問いかけ、ただじっと耳を傾けてくれた久枝先生。

久枝先生は、私自身にかわって、その声を、ゆっくりと聞きだしてくれました。

私の中で、離れていた“心”と“体”がいっしょになり、涙があふれました。

やっと気づいてくれたという“心”の、喜びの涙。

そして、ずっと昔に引き離され孤独に走り続けてきた“体”がその半身と再会できた、喜びの涙でした。

そのあと、診療台に横になり、チャクラの診断と、ハンズオンヒーリングがはじまりました。静かに流れる時間の中で、足の裏からはじまり、第2チャクラ、第3チャクラと下位のチャクラから順をおっておかれる手の暖かさに、涙で動揺していた気持ちも落ち着き、一瞬、眠ってしまったと思います。

ヒーリングが終わって目覚めると、視界が急にクッキリとひらけ、呼吸が深くなり、絡まった糸をほどいたようにスッキリとして、なにかのスイッチがオンになったような感じがしました。私が私自身に戻った感じ。この“感覚”を忘れずにいよう。そう思いました。

カウンセリングによって問題の核心が浮かびあがり、気づきがわきおこり、ハンズオンヒーリングによって生きていく力が充電された、そんな体験でした。

 

「治療をうけて/カイロプラクティック治療」

治療をはじめた時の右腕は、親指にかすかな不随意運動がみられるだけで、手指の感覚は全くなく、動かしたり、腕の曲げ伸ばしは全くできませんでした。

上腕骨はプレートとボルトでつながれましたが、上腕内側の筋肉は切断され、かろうじて後ろ側の筋肉だけつながっている状態。神経は内側と外側の筋肉にくるまれる形で幸運にも切断はまぬがれましたが、事故での長時間の圧迫が麻痺を生じさせていました。

「生体エネルギー治療」のあと続けて「カイロの治療」をうけました。

一彦先生は、ひととおり右腕の状態の説明を聞いた後、グッと力強く私の右手を握り、「力を入れて、私の手を握ってみてください」といいました。

びっくりしました。事故の後、こんなに力強く麻痺した右手を握られたのは、初めてでした。リハビリで通い始めた作業療法士の先生ですら、そっと手をとり、腕を動かすだけだったのです。

自分では力を入れたつもりでしたが、麻痺している右手は、先生の手を握り返すことはできませんでした。

そんな私に、先生は、「大丈夫。必ず動くようになるから。人間の体はひとつ部品がダメになっても、ちゃんと他が代わりに働いてくれるようになるんですよ。」といい、右手から上腕部にむかってマッサージをはじめました。

続いて、長い間重い右腕をぶらさげていることで固まってしまった肩の筋肉をほぐしていきました。正直をいえば、そのとき、あまりにも大胆なさわりかたに恐怖を覚えました。

私の脳裏に、レントゲンにくっきりと写った骨をつなぐ分厚いプレートと6本の太いボルトがちらつきました。

もちろん、骨も筋肉も、事故の傷はすっかりなおっていたのですが、自分の中に入り込んでいる自分でない物体への違和感がずっとあり、傷跡のある上腕部には、「痛み」への恐怖から自分でも触れることがなかったからです。おびえる私に気づいているのかいないのか、一彦先生のマッサージは続きました。

そんな恐怖感も、数日間にわたる治療で筋肉がほぐれはじめると、少しずつ薄れていきました。手技による、頚椎の右腕の神経にかかわる箇所への治療、右腕麻痺により生じていた身体全体の歪みをなおす治療が続きました。

「人間の体は丈夫にできているんですよ。治らないものなんて、本当はないんです」

一彦先生は、動く可能性は低いといわれた右腕に、治療のたびに繰り返し語りかけてくれました。その言葉に励まされ、平行して作業療法のリハビリにも毎日通いました。

 

ある日、指がかすかに動き始めました。身体全体に力を入れて踏ん張ると、ほんの数ミリ、親指を曲げることができました。ほどなくして、他の指もゆっくりと少しずつ曲げられるようになりました。

手を握る動きもできはじめました。握りこぶしはつくれませんでしたが、ソフトボールに沿って手のひらを曲げられるようになりました。

次に、親指と人差し指でOKマークをつくることができるようになりました。

物をつまむ力をつけたくて、小さなコマをつまんで動かすリハビリを懸命にやりました。

そして、ついに、腕を曲げることができるようになったのです。

身体いっぱい踏ん張って、ゆっくりと、右腕を肘から曲げることができたとき、喜びが静かに湧き上がってきました。

「一彦先生の言っていたとおりだった。体はちゃんと、切れた筋肉の代わりに他の筋肉を発達させて、機能を補うことができるんだ」そう思ったとき、自分の中にあったその“力(パワー)”にあらためて気がつき、驚きと愛しさと感謝でいっぱいになりました。

リハビリが一つの山を越え、右腕の動きは完全ではありませんでしたが、春を間近にひかえた北の地へ戻ることになりました。

帰る前にもう一度治療をうけるために、「ストウヒーリングセンター」を訪れました。

今度は、わずかな力でしたが、先生の右手を握り返すことができました。

動くようになった右腕を、一彦先生も久枝先生も、とても喜んでくれました。

ところが、そのときに一彦先生に一喝されました。

「いつまで、三角巾をしているのですか。もう、大丈夫なんだから、はずしなさい!」

そう、私は、せっかく少し動くようになった右腕にまた何かあったら大変と、まだ三角巾で大事にくるんでいたのでした。

あのとき、先生にいわれなければ、何かあったら三角巾に逃げ込むような状態を長くひきずっていたかもしれません。

あの一言のおかげで、三角巾をはずし、勇気をもってそのあとの生活にすすみだすことができたのです。

事故にあったのは秋。雪に閉ざされた農閑期の冬に治療をうけ、芽吹きの春に、信じられないことですが、再び、畑にたつことができました。

 

「おわりに」

あのとき「ストウヒーリングセンター」を訪れなかったら、右腕は動かないままだったと思います。

“からだ”と“心”が一緒になっている姿が本当の私自身だとすれば、私は、お二人の治療によって本当の自分を取り戻すことができたのだと思います。

そして本当の自分は力(パワー)にあふれていることを、身をもって体験しました。

野菜の種をまくたび、種皮にわずかに切れ目が入り、そこから大地にむかってかすかな根が伸びはじめ、つぎに太陽にむかって力強く双葉をもちあげるその姿に、毎回、感動を覚えます。

どの種も、ゆっくりだったりはやかったり差はあるけれど、トマトはトマトに、きゅうりはきゅうりに、自分の本来の姿を忘れずにちゃんと育っていく。

大地と太陽に無条件に体をあずけきって迷うことなく力強く成長していく様子を見ていると、「みんな、自分の力を疑うことなく信じているんだ」と感心させられます。

野菜たちは、“本当の自分”でいることの幸せを身をもってしめし、 私たちに「“本当の自分”を見つけて、喜びとともに、一緒に生きていこうよ」と、いつもメッセージを送ってくれています。

“体”の不調は、本当の自分から離れてしまっているというサインだと思います。

でも、それに気づき、本当の自分に戻るたびに、またひとつ、前よりも強くなった自分に出会える気がします。

深く大きな愛をもって“心”の声を聞くことをサポートし、新しい自分を生きるよう励ましてくれる、一彦先生、久枝先生に、いつもたいへん感謝しています。

 

 

今この患者さんは北の大地、北海道でご主人とお二人で有機農業をしていらっしゃいます。 年毎に作物の種類も増えていき、だんだんと野菜の味も濃く豊かになっていっています。 季節の便りとして送ってくださる採れたての野菜や果物に自然からのエネルギーと彼女たちご夫婦の愛情を感じながら、美味しく頂いております。 この患者さんの農園からのメッセージを読んでください。

 

しぶはち農園とそこでとれる野菜について

しぶはち農園では、人間本来の健全な精神と肉体をさぽーとするために、生命力のある野菜を作ることを最大の目的にしています。そんな野菜は、「調和のとれた自然環境の中で、健康な土壌から育つ」と考えて、化学肥料・化学農薬・除草剤は一切使っていません。肥料は可能な限り手作りで(米ぬか・菜種粕・魚粕を醗酵させたものや植物の醗酵液)、失われてしまった大地のエネルギーを復活させる為に、海水や鉱物のミネラルを施しています。

さらに、シュタイナー教育等で知られる、ルドルフ・シュタイナーの提唱した「バイオダイナミック農法」 - 地球上の生命は宇宙のあらゆる天体のエネルギーの影響を受けて存在していると考え、そのエネルギーを最大限に引き出す為に、種まきや苗の植え付けなど天体の動きにあわせて行います - をとりいれながら農作業しています。

 

畑は山間にあり、東藻琴山を水源とする家の前を流れる川では、山女や岩魚が泳ぎ、畑では、一日中鳥たちのさえずりが響きわたります。今の時期は、セミやカエルの声も重なり、人間は私たち夫婦2人しかいませんが、それは賑やかな演奏会場となっています。

 

当地オホーツクは、国内でも有数の日照時間の長さを誇り、「オホーツクブルー」といわれる澄み渡った青空から降り注ぐ太陽の光と寒暖の差が、おいしくて生命力の高い野菜を育んでくれます。

 

大地の担い手 - 「Earth Keeper」として、この自然環境を守りながら、皆さんにおいしい野菜をつくり届けることが、私たちの喜びです。

 

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